たとえばの話。彼女の背中にこちらの背中をあずけ、ゆっくり息をつくことができたなら。それは安心できることだろうけど、少しばかり距離が近すぎる。
たとえばの話。夜中に眠れなくて膝を抱えていて、飲み物を持った彼がやってきて、隣に座ったとして。愚痴をこぼすなんて甘えたことが、意固地な自分にできるだろうか。
たとえばの話。そうしてみたところで、やっぱり彼女は毅然とした目で前を見続けているだろうし、やっぱり彼は黙って聞いているだけだろう。
彼女は厳しいのだ。
彼は優しいのだ。
俺は彼女の厳しさに報いなければならない。
わたしは彼の優しさに報いなければならない。
彼女の厳しさと優しさに値する相棒でいたいと思う。彼の優しさと厳しさの前で胸を張れる相棒でいたいと思う。
だから、たとえばの話はいつまでもたとえばの話のままなのだ。
もちろん、甘えたって、愚痴ったって、弱音を吐いたっていい。そんな日もあって、それでも。
たとえばの話、さ。
今夜はあれが食べたいとか、そういうのを突然相手にリクエストすることで、無理をいって作ってもらって、ありがとうってご機嫌で食べることで。そういうふうに甘えてもいいんだ。それで元気になったって。
何もいわなくてもいいんだ。何かいってしまってもいいんだ。
夜中に部屋をノックしようと思ってやめることも、今夜ばかりは部屋に入ってきてほしくないと思うことも、どっちだってあっていいんだ。
コーヒーの気分の日にミルクココアだったりしても、甘ったるさに甘えるからいいんだ。
ミルクティーの気分のときにブラックコーヒーだったりしても、苦さに顔をしかめて苦笑するからいいんだ。
うん、まぁ、たとえばの話。
お互いに厳しいから立ってける。お互いが優しいから一緒に歩いてける道が苦ばかりじゃないって思える。
優しいけど甘やかさない彼と、厳しいけど優しい彼女。ときどきハイタッチ。立ち上がる相手に手を伸ばしてやって、この手を掴め・でも自分で起き上がれといいながら、掴めよわたしが・俺がいるだろ、と、ことばにせずに云っている。
たとえばなしなんだけれど。
まるっきり直喩で、喩えてなんていないのかもしれないけれど。
実行にうつされることがないのであれば、それはやっぱり夢想であり、口のなかでころがすことばであり、背中を呼びとめようとしてやめるこころ持ちであり、歩を進めて横に並んだときに互いに見合わせる瞳の色であるのだ。
だから、まぁ、たとえ話。ぜんぶたとえ話。もしもの話。いや、
もしもじゃなくて、たしかな話。
そんなことを時折口にしようとして、何とはなしにやめたんだ。
たぶん、不粋だったから。
だから彼女の背中に寄りかかったことはないし、彼に弱音をきいてもらったことはないし、その日の飲み物はちゃんと要望を告げる。
たとえ話、でいいんだ。口にされることがないうちは、彼と彼女の間でこの話はずっと暗黙の了解として成り立ち、成り立っているうちは彼らもまた相棒というその場所に立ち続けるのだから。
「なに飲む?」
「コーヒー。ブラックでいいや」
「そ」
薬缶がしゅんしゅんと音をたてる。
どちらの口も別段ひらかれることのない、その有り触れた沈黙のなかで。信頼の名に似た暗黙の了解は静かに息づき、眠り続ける。
そういう所謂ひとつの、たとえ話。
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ブラックコーヒーを所望したのはどっちでしょうか。どっちでもいいつもりなんだけれど。
秘密は明かされぬうち、ことばにされぬうちが秘密なんだろうなって。秘密を秘密のまま持ち続けるには、明文化せずにいておくのだろうなと、それがたぶん「たとえ話」。
ぎんたま以外に書いたものを雑多に。 コンセプトは「好きなものを好きなだけ」。
ぎんたま以外に書いたものを雑多に。 コンセプトは「好きなものを好きなだけ」。