「ああ、きれいだねぇ」
ねぇ曽良くんと同意を求めてくる。曽良はそうですねと相槌を打つ。
ときどき不思議に思うのだ。
彼が綺麗だと思うものをどうして自分も綺麗だと感ずると思うのか?疑わないのだろうか?綺麗だとは思っていないかもしれない、と。
問うても、彼は困った顔をして、だってそういうものじゃないの?と逆にこちらに問うだろう。訊いているのはこちらなのだが。
だがそれでも、曽良は彼の言葉を聴きたいと思う。きれいだねぇ、きれいだよ。あぁ、それはきれいなものなんだ。
彼にとって当たり前にそこにあるものを、当たり前の顔をして、当たり前の言葉で。だってそういうものでしょ、きれいだもの。とってもきれいなんだよ、あれは。
そうやって何度も繰り返されれば、いずれ指摘される前に曽良のほうから指し示すことができるようになるかもしれない。
ああ、綺麗ですね。芭蕉さん、と。
それでも曽良はひとつ、けして芭蕉が指さすことのできない美しいものを知っている。
きれいだねぇと、笑みに細められる目。ゆるむ口元。どこかを見る眼差し。知らないものを尊ぶ微笑み。些細なものを素晴らしく、通り過ぎるだけの足元の何かをきちんと捉えて、つかまえる目。
汚いものも澱んだものも美しいものも、すべては同じくここに在るのであり、目を背けてもはじまらない。だが、だからといって美しいものを偽善や嘘だと思うのもまた誤りであると、彼が教えた。すべては当たり前にここに在る。それを見据えてはじめて、云えるのだろう。あぁきれいだ、と。
彼はそうやって澄んだものを見つけ当て、当たり前のように指し示すのだ。きれいだね。すてきだね。尊いね。
そうですね、と曽良はひとつ頷きを返す。ほんとうに尊いものは当たり前の顔をして目の前にあるのだと教えてくれたのは、貴方だ。
曽良の目がそれとわからぬほどに少し眩しげに細められているということを、相槌にふと振りかえって笑う芭蕉だけが、知っている。
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お互いのみぞ知る。
ひらく蓮の花も、旅路で山に落ちる落日も、梢の水滴も。
ぎんたま以外に書いたものを雑多に。 コンセプトは「好きなものを好きなだけ」。
ぎんたま以外に書いたものを雑多に。 コンセプトは「好きなものを好きなだけ」。