旅のうさぎがぽつんと、街の灯を見ていた。
「何を見ているんだ?」
不意に、ひょっこりと少女が姿を現した。
キティ・ザ・オールは少なからず驚いた。彼の意図によってではなく、彼女の意図によって、或いは偶然の働きによって、夜に出会うことは初めてだった。
(偶さかなりし、しかしけして馬鹿にはできない…愛すべき、偶然。まったき神の名から外れるもの。円環を接ぐもの…)
キティは偶然を称揚していた。必然の呼び名が機械仕掛けの神であるのなら、それはまったく小気味よいものだ。彼は偶然の名のもとにも必然の名のもとにもいられる。そこに理由があるのなら。理由がないということさえ理由のうちだった。理由であるということが理由にならないように。
キティは微笑んだ。
「街を、見ていたのですよ」
ふゥん、とベルは彼の傍らに立った。背には剣が負われている。超重量のつるぎの、今はまだ鈍い側面にも、ささやかな光が反射した。
そっと目を細めて、キティは座ったまま頭を街に戻した。
小高い丘の上だった。街の外れだ。ベルはどうしてこんなところにまで来たのだろう。腹ごなしの散歩というには、その場所はベルの寄宿する場所からは離れすぎていた。
「散歩ですか、ベル」
「いや、…うん」
ベルは一度口にしかけて、否定した。
「あなたに会いたいと思ってさ。キティ・ザ・オール」
キティは愛嬌をもって首をかしげた。
「はて……私に、ですか」
「今夜、散歩をしたら、会えそうな気がしたんだ」
「それは重畳。こうして出会えて私も嬉しいですよ」
どちらともなく顔を見合せて微笑んだ。気の置けない友人のようだった。事実、キティと彼女の付き合いは短くない。
「…街を、見ていたら、昔のことを思い出したよ」
ぽつりとベルが云った。キティは問うとも促すともつかず、じっと耳を傾けていた。ベルにもそれが伝わっていた。彼女はうたうように呟きを続けた。
「あの国は、こんなにも明りに満たされてはいなかった。国によって、ほんとうに違うものだな」
「ベル、あなた、それは」
キティが何かをいいかけ、思い直したように口をつぐんで苦笑した。
そんなキティの様子を訝しんで、ベルが覗き込むようにして彼の顔を見やった。キティは降参するように肩をすくめた。
「それは、郷愁と呼ぶのではないでしょうか」
ベルは少なからず虚をつかれたようだった。驚いた顔をして、まるく目を見開いてキティを見た。
「郷愁……」
ベルにとっては生半ならぬ意味のある言葉だった。彼女の旅の由縁といってもよかった。キティは、ベルが他ならぬ彼女の生まれ育った国に対して郷愁を感じているという事実を、どういうことかと考えた。
彼女にとってはどこも故郷であらず、しかしてそれが故に故郷を追い求め、その歩を進める姿こそが故郷のない故郷となる。
彼女は納得して、むしろ誇り高く迎え入れるようにして、国を旅立ってきた。ベルにとって旅人であることは生きるスタイルに近かった。
キティは明敏にそれらを察していた。ベルにとっての不可侵領域であり、矜持でもある、郷愁という言葉の意味を。
(しかしそれは、喜ぶべきことでもある)
ベルが世界を巡り、ひとつの国で別の国のことを思い起こし、ひとつの岐路でいつかの道を想起して、ひとつのひとの輪の中で笑いつつ、また別の仲間たちの輪になって歌うことは、それ自体とても意味があることなのだ。彼女にとってすべてが故郷となることにもなる。
キティは察していた。ベルが流離うところは、すべからく彼女の故郷となるであろうこと。必ず旅立つという故に、すべての場所が寝床に、愛すべき家になるということを。
いつか振り返って、自らの道程を確かめたとき、ベルは驚くかもしれない。
まるで足跡のように、彼女の歩いたあとから芽が吹き草が萌え花が咲いているという事実を。
その景色を彼女が目にすることを望む、と祈るようにせつとした思いをこめて、キティはベルを仰いだ。
キティの紅玉の瞳は闇に沈み、深い天鵝絨のような色合いを見せていた。それがすっとベルの心を落ち着けた。
「そうだね…きっとこれもまた、郷愁なんだろうね」
わたしの郷愁は果てがない、とベルは困ったように笑った。不思議と力強い笑いだった。何かを確信したような安堵の笑みでもあった。同時に己の由縁の在り処の一端を知り抜いているような笑みだった。
キティは黙って頷いた。口元には力づけるような、穏やかな笑みが浮かんだ。彼もまた自らの由縁の在り処を知る者として、ベルの微笑みに賛同した。
「ええ、ベル。きっと」
きっと果てがないことは不毛ではない。
彼女の発った国の若き王が、豊穣の荒野と呼んだような、それは可能性の原野なのだ。
ベルが口の端を持ち上げ、キティに応えた。つっとその目が街を見た。
星が散りばめられたような夜景がそこにあった。ベルが口をひらいた。
「街に入るときに、この景色を見たよ。でもね、そのときわたしが思い出したのは、国のことじゃあないんだよ」
「ほう?」
「わたしはね、キティ。あなたの式を思い出したんだ」
豆鉄砲を食らったようにキティはびっくりした顔をした。赤い目がくるりとまるくなり、長い耳がぴんと立った。
「あのカタコームで、地下道で、走ったひかりを思い出した。ちょっとだけ似てると思ったんだよ。色味とか、さ」
「それはそれは…」
キティは言葉を探しあぐねて、当たり障りのない声をあげるにとどめた。
ベルが郷愁とともに国を思い出すということ。また、同じように思い出すものの中に、他ならぬキティの片鱗があるということ。
キティは嬉しいのか何だかわからないままに、胸をつかれるものを感じた。キティもまたベルの郷愁の範疇にいつのまにか含められているということだった。理由たる彼女の、その理由の片端に自分が引っ掛かっているということ。不思議な気がした。
だがキティの旅路に、ベルは欠かせない。密接に関わり、今や彼の望み、願い、希望といってもよいものになっていた。キティがベルを必要とするように、ベルもキティを必要とする部分があるのではないだろうか。そんなふうに思わせる言葉だった。
(私の望みも、願いも、希望も、彼女のそれらとは遠く隔たっているかもしれない。だが、しかし、ならば祈りを捧げたい。まったく彼女のためだけに、私は祈りを捧げたい。本来祈る対象の神の、そのちからを根絶しようとしている私に、祈る資格はないが、だからこそ彼女のために、彼女に向かって、私は祈りを捧げたい。私の望みと願いと希望とが、いつか彼女のそれらと反するかもしれないならば、祈りだけはどこまでも彼女とともにあるように)
(彼女の郷愁に幸あれ。この惑星のすべてが彼女の故郷であるように)
(ベル。私は今、あなたの幸福を祈っている)
キティの祈りを知らぬ顔で、ベルはするりと一歩、斜面をおりる。漆黒の髪が夜闇に艶やかにひかり、流れるように揺れる。
ベルは振り返った。
「飲みに行かないか、キティ。いい店を見つけたんだ。いつかあなたにはオン・ザ・ロック亭を教えてもらったろう。今度は私の番だ」
蛍よりも眩しい街の灯を背にしてベルが誘った。キティは穏やかに目を細めて笑った。了承のあかしだった。
「私でよろしければ」
にっこりとベルが笑みを返し、さくさくと音を立てて二人は郷愁の灯火に向かって丘を下って行った。
------------------------------
旅路の中で。どっかの国で。
郷愁は遠ざかって思うもの。それに近づいてゆくこと。矛盾とひとつの事実。故郷に近づくからといって郷愁から遠ざかるとは限らないということ。むしろ故郷に限りなく近づき重なり合うことによってこそ郷愁が生まれるのかもしれないこと。
回帰することとけして無縁ではない。
無何有郷…むかゆうきょう。むかうきょう。
転じてユートピアのこと。
向かう今日、とも読めておもしろいかぎり。
ザ・ナッシングは神出鬼没にベルのところに現れるのは健在。おもにご飯時。
ザ・オールはたまに顔を見せにくる程度。厄介事の頻度にもよる。
キティに賢者と愚者が同居してるのを、ベルは気付いてるのか気付いてないのか。うっすら気付いてるけど認識はしてない感じが黙認ぽくてちょうどいい。
ベルの旅路を想像してしまう。なんとなくなんだけど、それと交差するキティの旅路も。
いろんなとこでいろんなことを起こすんだろうなー
それでもって、ベルに恋人ができたり、気の合う相棒ができたり、でもその国かぎりだったりするんだろうなー
兄妹とか姉弟とかみたいになったりだとか。弟分を持って、ガフやら誰かやらの気持ちをちょっとわかってみたりして苦笑するといい。シアンともどっかでばったり出くわすといい。
キティも、愛着を持つひとやものができて別れがたく思えばいい。その上で別れればよい。
キティの旅路の終わりは過酷な気がするな…アドニスみたいな、こう、…
硬貨の国を通過してもキティの旅は続くんだろうな。でもぜんぶ終わったら、にっこり笑って逝ってしまうんだろうな…
旅のともがもし今後ともキティのみだとしたら、それはベルにはつらいことだろうな。
でも、キティを見送って、またベルは歩きだすんだろうな。
この記事にトラックバックする
ぎんたま以外に書いたものを雑多に。 コンセプトは「好きなものを好きなだけ」。
ぎんたま以外に書いたものを雑多に。 コンセプトは「好きなものを好きなだけ」。