「
即興小説トレーニング」さんでチャレンジしたもの。
お題:孤独な風邪
リミット;15分
文字数:1202字
ちょっと修正済み。
咳の音がした。こんこんと軽いものではなく、喉に絡む嫌な咳。その咳の主を俺は知らず、向こうもまた俺のことを知らないだろう。
だろう、というのは、向こうは俺の姿を見かけているかもしれないからだ。俺は生憎興味がないので、隣人が誰だとか帰宅時間だとか生活パターンだとか、そうしたものは何も知らない。他人に興味がない俺のような男は、だから衣食住に大した拘りもなく、こんな壁の薄い安アパートに住んでいるというわけだ。
安アパートの壁は薄く、それは外壁もそうらしい。きっちりサムターン錠を閉めて、カーテンを引いているというのに、隙間風がどこからか忍び寄る。それは隣の部屋もそうだろう。だから風邪を引いたのだ。
俺は隙間風対策はバッチリで、田舎から送って来たどてらを着こみ(受験勉強中はお世話になったが母親は俺がこの着る布団のような物体を愛していると思っているのだろうか)、窓には冬限定で目張りをし、極め付きは電気毛布という最強の布陣を敷いている。
馬鹿な隣人め。風邪なんぞ引きおって。だがこの最強の布陣を敷く俺ですらつい一年前は安アパートのボロさに負けて風邪を貰ったのだから、人のことはいえないし、隣人もまた学ぶだろう。ああ、防寒対策をしっかりせねば、と。俺ですら学んだのだ。受験勉強の成果も一年で耳から溶けて流れてしまった俺ですら。
田舎からの荷物は大体が過剰で、この着こんでいるどてらもそうだし、一人で食いきれないみかんもそうだし、ああもう、缶詰なんてこっちでも売ってるって!
また咳の音がした。嫌な音だ。昨年の風邪で俺はうっかり肺炎寸前にまで陥り───なんせ風邪の時はポカリを飲んで寝てれば治ると思っていたため───ぜいぜいひゅーひゅーという、木枯らしにも似た咳の音は聞き飽きたしもう聞くのも嫌だ。
壁でくぐもってよく聞こえないが、隣人の咳も、木枯らしのような音を立てているのだろうか。
俺は一度立ち、座りなおし、咳の音に押されてまた立ち上がった。
ええい。
風邪なんて孤独だからいいのだ。安静にして寝てれば治るし、そうやって孤独を噛み締めれば健康のありがたみも体調管理をすることの意味も学べるってもんだ。隣に住んでるのがどんな年寄りか、或いはオッサンか色っぽい姉ちゃんか知らないが(最後のだけはないな、だってここは安いボロアパートだから)、風邪の時は寝てれば治るだなんて思っているほど馬鹿なはずはないんだ。
嫌な咳の音はかれこれ三日ほどしている。
「…大体、隣のやつなんて顔も見たことねぇし」
コンビニのビニール袋に食わないみかんをごろごろ入れた。隣人が誰かなんて知るか。だからみかんが好きか嫌いかなんて知るか。風邪にはビタミンCだろ。実家の母ちゃんはそういって俺の口にみかんをつめこみまくったのだ。食いたくなくなるだろそりゃ。
「だから俺はみかんを捨てに行くだけだし」
そういってドアを開けた。咳の音が近くなった。
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