ネウロ。弥子とネウロ。
「6は一世代限りの新種で他の血族はみんな突出しただけの人間」、って葛西の話をネウロが推察として事前にぼんやりと漏らしてたら弥子は何を思ったろうと。
時期的にはヴァイジャヤ後からジェニュイン後くらい?
孤独はひとを捩じ曲げる。と同時に、孤独はひとを育む。醸造させ、深みを生む。
彼はひとではないが、ひとと名に付く魔人である。だから、彼の深み、たとえば人間味とでも呼ぶそれは、彼の孤独なのである。
弥子はソファの横の床に鞄を置いて、机の主を見やった。ネウロは手を腹のあたりで組み合わせて目を閉じている。
彼女が扉をひらいて声をかけ、あかねに挨拶して、今に至るまで反応がない。何か考えごとでもしているのか、それとも眠っているのかは窺い知れない。
用があれば声がかかるだろうと決めつけて、弥子はソファに腰掛けた。したくはないが勉強だ。探偵業のおかげで学業はお留守になっている。そうでなくても、もともと熱意をもってやっているとはいえないが。
以前のテストで懲りた。出来るときに少しずつやっていれば、大分ましなはずだ。
接客用テーブルの上に教科書を広げて、次の小テストの範囲を確認する。もしテストが酷い出来だったり、最悪、探偵の仕事で試験日に学校に行けないようなことがあったとしても、普段の小テストでコンスタントに点数がとれていれば大目に見てもらえるかもしれない。
ちまちまと赤ペンでアンダーラインを引きながら、椅子に腰かけた男の横顔を見やる。
魔人はひとと同じく眠る。ちゃんと夜に眠ればいいのに、と思ってから、夜、こいつはどうしているのだろうか、と弥子は思った。
弥子がいない間、彼がこの事務所で何をしているのか、彼女は知らない。
もしかしたら夜のほうが活動時間だったりして。魔人という響きから勝手にそう思った。魔界という響きからも、彼のいた本来の世界は、この世界の昼よりも、夜に近いような気がする。ただの想像だ。だが、それなら夜のほうが彼にとっては慕わしいのだろうか。想像してみて、いいやこいつはどちらでも同じだというだろうなと思いなおした。
ネウロは此処以外のどこかへ出歩くことがあるのだろうか。単純にふらりと。わけもなく。それは彼女の想像の埒外だ。
最近はネットでなんでも出来るし、見れるし。机に座っていれば暇は潰せるのかもしれない。ネウロは人間の世界の情報を絶えず収集している。興味で。探偵業務の必要上。好奇心で。謎を解くのにいるかもしれないから。暇で。趣味と実益を兼ねて。
なんだ。私が慮るようなことは、ないんじゃないか。
弥子は赤ペンを置くと、鞄からペットボトルを取り出して飲んだ。飲みきって空にすると、後で捨てるつもりでテーブルの片端に置いた。
種族の違いが彼と彼女の理解を阻む。共感すらも隔てられている。互いの感覚にはずれがあり、感情面には深い溝がある。
だが、それが何だというのだろう。そんなものは人間同士にだってある。理解し得ないひともいる。共感できないこともある。感覚がずれているひともいる。ひととひととは深い溝に隔てられている。
魔人と彼女だけではない。彼女と他の人間だって、同じことだ。
それでも、彼はたった一匹、たったひとりの生き物なのだ。
絶対悪と呼ばれた男を思い浮かべる。あれもたったひとりの種族なのだと聞いた。
突然変異。亜種。進化の袋小路。染色体の数の差。細胞分裂の不備。
何といってもよい。違うものは違うのだ。
たった一匹の生物であるという事実の点で、ネウロと6は重なる。だが片や人類と共生し、片や人類の敵だ。
何が彼らを隔てるのだろう。
“違う”ということは、ひとつの孤独である。他者と違う。優越感も劣等感も、つまりはそういうことだ。違う、という単純な事実にどんな意味付けをするかだ。
たとえば、と弥子は仮定する。孤独は6をひとから追いやった。なのに彼は仲間を探した。血族とは彼の手足であり玩具であり、ファミリーであり使い捨ての道具である。その歪み。孤独、ひとりぼっちとは、攻撃性を孕む。
たとえばそんな風に考えたら、その悪意を理解できずとも、人格を肯定できなくても、存在を許せないものだとわかっていても、かの男のことを少しだけ、想うことができるかもしれない。
そして、“たとえば”。たとえばネウロが同じように一世代限りの新種だとして。この世に誰も彼と同じ生き物がいなかったとして。その攻撃性、嗜虐趣味が、孤独に端を発しているとして。
どうして彼はあんなに優しい生き物なのだろう。
環境には優しくない。絶対に。毒ガスの発生する地帯を好むくらいだ。こいつの好みに合わせたら事務所に人間なんて居られなくなる。
趣味嗜好、性格も、彼女に優しくない。外道だ。鬼畜だ。基本的に非道だ。
なのに、弥子は彼を、優しい生き物だと思うのだ。
どうしてかはうまく説明できない。だが、彼が人間を守る筋合いなどないと、何となく思うのだ。目の前で百人死のうと、彼が憤ることではない。千人死のうと、関係ない。万を越えても、だからなんだというのだろう。人間はこの地球上に億を超えて存在しているのだ。挑発に乗るほど頭が悪いわけでもないのに。目の前で失われるいくばくかのために身を挺することなどないはずなのだ。
たぶん───これは余りにも好意的な解釈に過ぎるかもしれないが───彼は、人間が好きなのだ。
けして彼はいわないだろう。口が裂けてもいわないに違いない。聞かなくていい、と弥子は思う。私が勝手にそう思ってるだけだから。それで充分だから。
自分以外の誰かや何かを好きになれて、そのために自分の不利益になっても構わない。ほとんど破産も辞さない。
血族との闘争で、そういうネウロの態度を見るにつけ、思うのだ。こいつにも機微がある。感情の綾、ひだがある。
その深み。孤独と他者との関係で生まれる歪み、攻撃性と対を成す、弥子がたとえるなら、コクと味わいとでもいうべきもの。
彼の嗜虐性、その歪みは、種族の違いからくる価値観の違いのみならず、同時に彼の孤独である。
彼の孤独。それは、彼が彼であるということだ。
私の孤独は、私を形成(かたちづく)るだろうか。つくるだろう。父の死に泣いたひとりきりの時間も、他のすべての時間とひとしく、私の血肉となっているのだから。
孤独なしでは人間性に深みは生まれない。だから彼女が人間性と呼ぶものを魔人が覗かせるのなら、それは男が孤独を知っているということで、同時にその孤独を血肉としてきたということなのだ。それを強いと思う。とうといと思う。
きっと死んでもいわないが、いいやつなのだ、と弥子は思った。確かに非人道的だし、サディストだし、酷い奴だとしょっちゅう思うが、根っこが素直で優しいのだ。
人間の彼女の価値観で彼をはかることは不粋かもしれない。無駄かもしれないし、的外れかもしれない。でも、それでいいのだ。無理に当てはめたいわけではなく、彼は彼だということを、弥子は彼女なりにわかりたいだけなのだから。
「…先程から手が止まっているぞウジムシ」
目を閉じたままネウロが口をきいた。弥子は驚いてペンを落っことしそうになった。
「いつから起きてたの」
「誰が寝てるといった」
それもそうだ、と思わず頷いた。ネウロは姿勢を変えずに、そんなところでうるさくされれば嫌でも起きる、といった。
「別にうるさくなんてしてないけど」
「貴様など存在が雑音そのものだ、このツェツェ蝿めが」
「あー…ウジムシからちょっと進化した…」
この場合は成長かな、と首を傾げてから、ちっとも嬉しくないとぼやいた。
「捗らんようだな。我が輩が直々に赤ペン先生になってやろうか」
「うわぁ、また妙な単語を覚えてきて…」
ひょいと椅子から立ったネウロが一歩でソファに近づき、彼女の頭を鷲掴みにした。
「二度と忘れんように貴様の脳に赤ペンで公式を書きこんでやろう」
「いい、いいです!二度と脳細胞が機能しなくなる!」
いつの間にか奪われていた赤ペンが彼女に迫る。
「ならば鏡を見るたび思い出すよう、顔面に書きこむか。心配するな、きちんと反転させて書いてやる。今ならもれなく全身に刻んでやる。顔面は英語、腕は数学、腹は化学、足は世界史と日本史というサービスっぷりだ。無論、最も重要な頻出単語と公式は背中だ」
「最悪な気遣い!つーか全身に文字って、私は耳なし芳一か!」
「ミミナシホウイチ?なんだそれは」
「知らないの?えーとね、昔話、いや怪談っていうのかなぁ…」
彼の孤独は、彼をつくる。彼女の孤独も、彼女をつくる。どちらもなくてはならないものだ。
だが同じように、彼と彼女がいて孤独ではないこの瞬間もまた、彼らという関係を、絆をつくる、とうとい一瞬なのだ。
*****
親兄弟のなさげな魔人っていう種族からして愛情を知らないっぽいのに、たった一匹の変種はどうしてあんなに優しいんだろうと思って。
ネウロは弥子に育てられてるといい。ネウロが弥子の成長を見守るように、一緒に変化してけばいい。
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