ネウロ。篚口と弥子。
ネウロ帰還前で、二年半から三年未満くらい。
「あ、篚口さん」
思いがけず廊下で、ばったりと出くわした。篚口は驚いて目を瞠った。
「桂木。来てたの。今日はまたなんで?」
「この間の立てこもりの件で。まぁそれはすぐ終わったんですけど、今ちょっと通訳に呼ばれたところなんです」
「通訳?あ、桂木けっこう喋れるもんね。でも英語仏語くらいならうちでも話せるやついそうなのにな」
「訛りの酷いスペイン語だそうです。私でも聴き取れるかわかんないけど、とりあえず話せるようなら何とかしてみようかなーって」
「ふぅん。ま、終わったらちょっと俺んとこ来なよ。久々だし、ちょっと別件で見せたいものもあるし。情報犯罪課、どこかわかるよね?」
「うん。いつ終わるかわかんないけど。また後で」
そうしてすれ違って、十数時間の後。
「篚口さん、います?」
部署の扉がノックされて、弥子が顔を出した。篚口は椅子を回して振り返って、ああと声を上げた。時間が経ち過ぎていて、すっかり昼間に会話を交わしたことを忘れていた。
「びっくりした。遅かったね」
「いやー、ついつい話が弾んじゃって…」
「え、訛りの酷いスペイン男と?」
「そう、そのひとと。取り調べも兼ねてたから、結構時間かかっちゃって」
「ずっと喋ってたわけ?」
あれから何時間経ってると思うのだ。思わず時計の針を確認してしまってから、もう十一時過ぎてんぜといった。
「篚口さんこそ。よくこんな時間まで居ましたね。もう帰ってるかと思った」
「んー、ここあんま昼とか夜とか関係ないんだよ。一応国家公務員だから、定時に帰ったほうがいいんだけどさ。籍があっても席がないやつがいたり、妙な部署だからさ。だから定時とか残業とかタイムカードとか意味ないんだ。大体、ここにいなくてもできることがほとんどだし」
「それひとつあれば?」
そういって弥子が指したのは机にあるノートパソコンだった。篚口は笑う。そう、これがあれば。
「そのとおり。だからここにいても、いなくてもいい。ま、今日は用があったから、仕方ない」
「用事?他のところもみんな閉まってますよ」
「他のとこは関係ないんだ。持ち出し禁止の、紙の情報を借りてきてただけから。おっと、これ以上はいくら桂木でもいえないよ。部外秘だからね」
「大丈夫、訊きませんよ。篚口さんの顔も笛吹さんの顔も潰す気ないし」
「…なんで笛吹さんからの頼みってわかった?」
「え、だって篚口さんの上司は笛吹さんでしょう?ここの部署での上司は違うのかもしれないけど、笛吹さんは篚口さんの後見人みたいなものだし。他のところが全部閉まってるのにここだけ電気ついてるって警備のひとがうるさいでしょきっと。でも追い出されないで黙認されてる。それは事前にちゃんと話が通してあるってことだし、そういうのは篚口さんより笛吹さんがやる根回しっぽいなって思って。それに今時、紙の書類で持ち出し不可なんて、すごく古いものか、正式なものじゃないかのどっちかでしょう?どっちかはわかんないけど、正式なものじゃない…正式に残しておけなかったものか、表向きなかったことにしたほうがよかったことだったら、こんな誰もいない時間にこっそり作業してる辻褄も合うし。それは篚口さん個人のやることっていうよりは、もっと上から来たものって考えたら納得できるかなって…まぁ、何となくだよ」
「何となくで済ませられる的中率じゃないだろ…ますます探偵の肩書きに磨きがかかって来たよな桂木…」
あはは、と弥子は苦笑した。篚口は彼女に椅子を勧めた。弥子は素直に礼をいって腰掛けた。
「桂木は最近、何してるんだ?噂はわりと入ってるけどさ」
「最近は、そうだね。主にひとと話をさせてもらってるよ。いろんなひとと」
「ふーん。肩書きは探偵のままで行くんだ?」
「うん。ほら、今から他の肩書きを名乗っても、私の名前はもう探偵とセットになってるし」
「…待ってるんだ?あいつを」
「そうともいえるし、そうじゃないともいえるかな」
「あいつは帰ってきますよ。それはもう間違いなく。でも、それがいつかはわからない。明日かもしれないし、何十年も後かもしれない。でも、いつだっていいように、私は探偵でいることにしたんです。私が死んだ後でもいいように、私は自分の名前を残しておきたい。探偵、桂木弥子を」
あいつがどこに戻って来てもわかるように。
「もう充分過ぎるくらいだと思うけどね…」
「いいえ、まだまだ!たとえ私が生きてるうちに戻ってこないのが確定してたって、私は探偵と名乗るのをやめませんよ。あいつのためじゃなくて、私のために。だって私の見たいものも、したいことも、この探偵って道の延長線上にあるから」
「しあわせもんだね、ネウロは」
「え?」
「こんなにいい相棒がいるなんてさ。待っててなんてやらないで進むっていってる癖に、いつでも席は空けてある、ここに帰って来いっていってんだからさ」
「…なんか、そういわれると照れる」
「いや、充分恥ずかしかったよ。俺がね」
「あ、はい…」
篚口は、ひたすら照れる弥子を見ながら、先程わけなく事情を見抜かれたのに一矢報いたような気がして、快活に笑った。
「早く戻ってくるといいねっていえばいいのかな?それとも、もうしばらく戻って来なくてもいい、っていえばいいのかな?」
「…どっちもですよ。私、まだまだですから。あいつが戻ってくるまでに、もっと身につけておきたいこといっぱいあるし。でも、もう、どっちでも大丈夫なんですよ。ネウロがいつ帰ってきても、二度と帰って来なくても、もう、大丈夫なんですよ」
篚口には何だか酷く弥子が眩しかった。彼女はもう少女ではなく、大人なのだなぁ、という気もしたし、年齢に関係なく、これが自分の知っている、いつかこの目を覚まさせた、桂木弥子という人間だという気もした。そのどちらの事実も眩しかった。
俺だってまだ若いんだけどなぁ、と思いながら、年上ばかりと働いているこの職場で、そうでなくても特殊な部署と経歴であることで若僧扱いや軽んじられることが多い篚口は、自分より年下の人間と接する機会がほとんどなかった。だから眩しかったのだ。成長というものが。
俺もうかうかしてらんないなぁ、と思って、篚口は苦笑した。
「あ、篚口さん。用事って結局なんだったんですか?」
「うん?あー、大したことないんだけどさ。ちょっと前にいってたやつのことなんだけど…」
そういいながら壁の時計を見やる。
「もう日付変わるし。送るから道すがらでいい?」
「え、そんな気を遣ってくれなくても」
「いいのいいの。俺もさっき一段落ついたとこだし。帰ろうと思ってたとこだからさ」
「そうなんですか…でも、途中で深夜営業の食堂に寄ってっても…」
「…いいけど。あ、スペイン男と喋りっぱなしってことは、もしかして夕飯食いっぱぐれた…?」
「いえ、それは食べながら喋ってたんで大丈夫ですけど。相手も一緒にカツ丼食べながら。やっぱり警察来たらカツ丼ですよねぇ。親子丼もおいしかったな。あんかけ丼もよかった。うなぎも頼みたかったな…」
「…あ、そう…」
スペイン男も驚いたろうな、と思いながら、ノートパソコンひとつを携えて、篚口の帰り仕度はととのった。
「じゃあまあ、ちょっと一杯ひっかけてから帰るとしますか」
「賛成!」
ぱちんと電気を消して、うわぁこれは懐中電灯いるよ、飲むなら屋台でもいいね、などといいながら、二人の足音が遠ざかっていく中、誰もいない部屋で、かちりと時計の長針が十二を過ぎた。
*****
ネウロのいないところでも弥子の日付は変わる。でも弥子の日付を進ませるのはネウロ。もちろんネウロだけじゃないけど。
そして進むのは弥子だけじゃない。篚口も。登場してないけど等々力も笛吹さんも、他の人たちも。
そしてネウロの日付だって、当人の知らないうちに、何度も変わってるんじゃないかなぁなんて。進化っていうか変化の話。
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