善かれと思ってしたことが、あまり善くはない結果を導き出したことなどいくらでもある。かといって、何もしないという選択はあんまりだろう。だからときどきわからなくなることがある。
「なぁ菊。俺にはわからないんだ。君にこんなことをいってしまうのが正しいことであるかどうかもわからない。ただ訊きたいんだ。俺は間違っているかい?」
菊は黒い瞳をこちらに向けた。ひとのかたちをした深淵が凛として口をひらく。
「アルフレッドさん。正しいか否かが絶対の裁定ではないのです。正しくもあり、間違ってもいることなんて沢山あります。選択は後になってからしか悔やめないし、決断の是非が問われるのだって後世のことです。裁定は百年待たねばならない。我々は時間をかけて物事を解きほぐしてゆかねばならないのです。勿論、その時間のうちにこじれるものや、新たに発生する問題もあるでしょう。軋轢も、過失も不可抗力もあるでしょう。しかし我々がやらねばならないことは変わらないのです。おのおの、気をつけてゆきましょう。隣人に肩を叩いて注意を促せるようにしましょう。苦言を受け入れ、また己の落ち度を認めるよう心掛けましょう。忘れてはなりません。こうしてテーブルにつくまでに長い長い時間がかかってしまったことを。席が用意されている意味を。この僥倖を」
隣人と、遠く海を越えたものと、肩を並べてお茶を飲める。何に憚ることなく会話を交わして笑い合うこともできる。
「ずっと、おはなしをしたいと思っていました。あなたがたと」
アルフレッドは肩を竦めた。
「…引きこもりで有名な君が、かい?」
「引きこもっているつもりなんてなかったんですよ。今ほど気軽に会って話せる機会もありませんでしたし。文明の利器さまさまです」
それにね、と菊は続ける。
「もう間に合わない、なんてこと、そうそうないんですよ。起こってしまった出来事それ自体は変えられませんが、感情は届けられます。ちゃんと追いつくんです。正しく過去を清算したいと思うのならば、それは叶わないことではないのです。対価はただひとつ、“これから”。この言葉と覚悟だけです。陳腐かもしれませんが真理はいつだってそんなもの、約束や誓約なんてなんの物理的拘束力も持たないと一笑にふしてしまうのもひとつかもしれませんが、わたしは約束を蔑ろにしたくはありません。わたし自身のものも、そうではないものも」
あなたにもあるでしょう、そういった些末で違えてしまったいくつもの約束が?
アルフレッドは嘆息した。
(ああ、あるよ。約束がたくさん。たぶん俺のほうから破ったんだ。たくさんたくさん。でも今だから意味をもって結べる糸もあるんだ。俺は知っているよ。今から結んでゆく約束を大切にしようっていうこともできるよ。これから、を、今度こそ約束したいんだ。でも)
「守りかたがわからないなぁ…」
「ヒーローにあるまじき台詞ですね」
揶揄するように、菊が微笑む。痛烈な批判ではなく、ゆるやかに。
「走って追いかければ捕まえられるものもあるでしょう。アルフレッドさん。そういうの、あなた、お得意では?」
「逃げ足が早いんだ。隠れるのもうまい。それに守ることが攻めることと同義なんだ。俺はときどきお手上げの気分になるよ」
「厄介ですね。ですが、そういう場合にこそ正攻法というのは意味を持つのです。あなたが逃げも隠れもしなければ、そして攻めも守りもせずただ向かい合えば、おのずとわかることでしょう」
「簡単にいうね」
「いつだって簡単なことなのです、ほんとうは」
菊は東洋人特有の、感情も年齢も読めない穏やかな顔でそういった。アルフレッドは何となくその顔にかてない。
俺はいつまでたっても末っ子扱いかい、と思ったが、それもまたこどもっぽく過ぎるだろう。意趣返しのように、問いかけた。
「菊は、簡単だったかい?」
「…いいえ、恥ずかしながら。ですが思っていたほど無理難題でもなかったようです。もっと早く、しても、よかった」
言葉が不自然なところで区切られたのは、考えながら話しているからだろう。菊は僅かに沈思して、頷いた。
「早ければいいというわけではありませんし、時間を置くことが必要なこともあるでしょう。最適な日というのはある日突然、前触れなく訪れます。だからといって焦ることもありません。どんなに遅かろうと、相手に届かなくなろうと、それでも届けたい感情はここにあります。ならば約束を守ることもできないわけがないのです。果たされないことで意味を為す約束もあります。たとえ明日世界が終わるとしても、遅いことなど何もないのです」
届けたいものがあるとき、それによって生きることも死ぬこともできる。約束が生きるかぎり死なないものもあるかもしれないし、己が死なないかぎり生きる約束もあるだろう。
正しいか間違いかなどでは語れない。
そうした物差しだけでははかれないといわれて、アルフレッドは口を尖らせた。
「つまり?」
「思い立ったが吉日です。いってらっしゃいアルフレッドさん」
「君って実は結構いい加減だよね!」
ばれましたか、と菊は舌を出すような仕草をした。善は急げともいいますと付け加えた菊に、アルフレッドは大袈裟に笑ってみせることで応えた。
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たぶんアルはアーサーのことをいってて、菊はにーにのことをいってます。が、それにとどまるわけでもない気がします。
ぎんたま以外に書いたものを雑多に。 コンセプトは「好きなものを好きなだけ」。
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